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市川櫻香の日記


by ooca
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白州正子著書から「日本の伝統芸能を教育へ」

私の住む名古屋の鶴舞には、古本屋さんが何軒もあります。時折、覗くと、自分の頭の中にふつふつとしている、ことがらを代弁するような本に出会います。1995年発行の「名人は危うきに遊ぶ」著者は白州正子。この本をめくるとすぐに、以下の随筆に迎えられました。
その見出しは<日本の伝統>です。【一つの国には、それを造り上げてきた長い歴史と文化があり、一朝一夕で変わるものではなく、また変えられるものでもない。そのくらいは自明のことだったと思うが、絢爛豪華な外国文明に眩惑された明治政府の役人は、いとも簡単に外国のものはいい、日本のものはダメだ、と短絡的にきめてしまい、ことに学校教育の面では全部が全部西欧風になり、今でもそれはつづいている。ある一面でそれは正しくないこともなかったが、抽象的な科学や技術は別として、情操教育に関しては取り返しのつかぬものが山ほどある。たとえば小学一年生にオタマジャクシは読めても、日本の芸術一般が大切にしている「間」というものの微妙なニュアンスはつかめない。間をとるなんてことは易しいことなので、一年生にでもできるが、私がいいたいのはそんな機会的なことではない。間という曰く言いがたい空白の時間の中に、言葉では表現しにくい多くのことがかくされているからだ。「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」在原業平が、梅が咲い
ている頃に、二条の后と恋を語ったその思い出を歌ったものである。そんなにいい歌ではなく、何となくわかったようなわからぬようなところがあるが、それでも私は大変好きなのである。「月やあらぬ」でひと息つき、「春や昔の」と、ためらいがちに「春ならぬ」といってしまった後は、ため息を吐くように「わが身ひとつはもとの身にして」というところへおさまる。
月も春の花もすべて去年とは変わってしまったのに、業平だけが変わらずここにいる。おぼろ月夜のさだかならぬ光の中で、彼の心はその孤独な寂しさを浮き立たせているかのようで、やがてその姿も暁の靄の中にとけこんで消え消えとなっていく。折口信夫は、日本の歌の美しさをそういうはかなさに見た。たとえば氷をにぎっていると、指の間からみるみるとけてなくなってしまう。後に何も残さないその清新でさわやかな感じにたとえたが、それは音楽にしても舞踊にしても同じことなのだ。別な言葉でいえば、歌を詠んでいる。または、舞を待っている、その間が生きていることなのであって、済めば消えてしまっていいのである。業平が生まれた平安初期は、中国一辺倒の時代で、何事も中国の模倣をしなければ夜も日も明けぬ有様であった。万葉集は忘れられ、公文書は元より、ふつうの交際でも漢詩を作らなければ一人前に扱われなかった。やまと歌は生活の片隅に押しやられ、わずかに私的な恋歌の中で細々と生命を保っていたにすぎない。〜(省略)現代の日本は、平安初期の風潮に大変
よく似ていると私は思っている。外部の嵐にもまれることは、一概に悪いとはいえない。〜いいと思っていることが悪くなったり、その反対もある。わりきれるものなんかこの世界には一つもなく、すべてはファジーなのだ。〜】
あとふたつ、この本の中に書かれた伝統芸能の随筆の一文を書き足しておきます。【「型」を守る伝統芸能は、みな同じことをするのだから、そんな違いがあることを不思議に思われるかも知れない。が、話は逆で、きまった型があればこそそこに個性の相違が表れるのである。たとえば近頃のように、「個性の尊重」とかいって、一年生から自由にさせておいては、永久に個性をのばすことはできまい。人間として知っておくべき基本の生きかたを身につけた上で、個性は造られるのであって、野生と自由が異なるように、生まれつきの素質と個性は違うのだ。個性は、自分自身が見出だして、育てるものといっても間違ってはいないと思う。】
【「人間は自由によって何一つしていない」とロダンはいった。また「鳩が空を飛べるのは、空気の抵抗のせいだ」とはたしかカントの言葉である。見掛け倒しの自由の中に道を見失った現代人は、もう一度そこへ還って、ほんとうの自由とは何であるか、見直してみるべきだと思う。】
科学技術の発展の中に生きていくことは、今を考えていくことですが、伝統をつなぐということは、そのこととは別にあることなのです。
by ooca | 2012-04-11 16:24