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市川櫻香の日記


by ooca
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とらのお

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昨日は、大先輩のお宅へ、過日のご挨拶に伺いました。先日の日食の朝、事務所に一本のお電話がはいりました。「もう私は九十歳になります」と、いろいろお話しを伺いお宅へ向かうことになりました。お住まいは名古屋の南、高台にある昔からの住宅地です。人生の最晩年を迎え、自身のまわりを整えられていく暮らしは、心持ちがあらわれた住まい方でした。「人間の究極のところ、余技に生きることがほんとうの在り方なのであろうか、と」白洲正子さんの言葉を思い出しました。再会を果たしたいと思う余りを残したのが、初めてお会いした印象でした。昨日は、その出会いのいきさつを、その時には話せなかったことを、ふりかえりながら、時を過ごさせて頂きました。さらりとおたていただいたお抹茶に、私へのねぎらいや励ましまで感じとれました。お話しをさまざま。帰り際に、写真の草花「とらのお」を頂きました。ちょうどたまご色に草の柄のひとえの着物を着ていましたので雰囲気が重なり季節を感じながら帰路。
つくづく日本の芸術は日常にあるとはこの様なことだと思いました。茶道の中で育った生活人の、その伝統にそった物や事、私のような不完全な者をも、招じ入れる。日本の伝統芸術の余地を感じさせて頂きました。芸術の伝統を軸にして、生活されたその姿に、深くあこがれを抱きました。
生き方の名人に出会った心地です。有り難うございました。
# by ooca | 2012-06-07 23:30

花へ

生まれた時より、祖母、叔父で営んでいた教室には、池坊のいけばなを指導する丹下雪枝先生が来ておられました。人に教えるにあたり、この先生のことをよく思い出します。子供の私に、大人に接するのと同じ様に、私の生けたお花へご指導下さいました。神妙にして、話される言葉、その手先、「拝見させて頂きます」とおっしゃられているような、いや、そのようにおっしゃられていたと思います。着物を着られた先生の横、やや後ろ脇のお体。お顔は、思い出したくても、私の記憶には、その手をおかれたお膝あたりまでしか記憶がありません。しかし、やさしい声で、ぐっと低く上体を前におしだされ、お花を見られるご様子はよく覚えています。おもむろに「結構でございます」とおっしゃられて、その後にひと言ご指導を下さるのが、先生のお稽古の流れでした。越後獅子の、「好いた水仙、好かれた柳・・」のくだりの踊りの振りは、水仙を生ける振りとなっています。小さな頃習ったこの振りを、特別な感覚を持って踊りました。背を正した丹下先生を思い出し、まるで丹下先生に自分がなったようにしていました。
私の小さな頃の生け花の品は、お花屋さんからあつらえられた整ったお花ではなく、皆さんが生ける際に切り落とした、たくさんの種類のお花や枝、葉物の切りくずとなったものでした。小さな私は、その無数の葉や枝、花から使うものを選び、大人の人をまねて剣山にさしていきます。さし終えると、先生のところに行き、「お願いいたします」と言い、指導を求めごあいさつをします。すべて、畳での動きです。先生は、生花の見方、使い方を静に指し示して、天、地の配置を教えてくださいました。何かわからないままにも、お花を通して、何かをいつか感じていきなさいということだったのでしょうか、門前の小僧宜しく、かわいがって頂きました。
今もお花を生ける時に必ず丹下先生を思い出します。
豊かな花の伝統は、生け花を、あそびの、もよおしごととしてだけでなく、花を通し、身や心を寄せて悟りへ向かう頼りとしてきたと思います。その境地にいたるかもしれない、一挙手一投足ですから、呼吸も整え花に向かうのでした。おのずと祈りをこめ花と向かっていくのです。
# by ooca | 2012-06-03 23:10
昨晩は、りきさん舞花さん、阿朱花さん、千花さん、お弟子さん他、仲良しメンバーで久しぶりに、お鍋を囲み、夜遅くまでおしゃべり。場所は、西区の「しゃしゃんぼん」、初夏にあわせてあっさり極上の鳥のお鍋でした。木造の古い自邸をお店にされています。お庭を見ながら、思い出したことがありました。環境という歴史のことです。環境の中に、自分から「挫折」を感じさせる場があったどうかというのは、想像力を持つ上で大切なことだと思いました。伝統芸能は、今より昔の先生の方が、天才努力型だったと思います。
テレビで文楽を放送してますが、形づけられた中にいることに、腹立ちがある感じがないことが、芸が小さいという感覚をあたえるのでしょうか。ハングリーでいることを、自分の熱さの感覚に対しての目盛りに思えます。おやすみなさい。
# by ooca | 2012-06-01 23:10
世にも奇妙なお話しといった本があります。昨日は杉浦日向子さんの百物語を移動の電車で読みました。一つのお話しが短いので、電車でぴったり。
何度も繰り返し読む本は、自分の変化を振り返るきっかけになります。小泉八雲の「耳なし芳一」は、小学校二年生の担任の先生が授業で読まれました。クラス中が物語にひきこまれていきました。生徒の私達は、先生の読む声と力に聞き入り、教室一杯、物語に皆の気が広がっていきました。
考えれば、私達が放つ、見えないひとつの気は、この現象世界にその生命を表現しようとする際に、必要な道具として、肉体と心を用します。心に感じたものが、意識を持って肉体からはみ出して見えない風をおこしていました。
杉浦日向子さんの書かれたものにも、線とその外側の書かれていない空間に、見えないものを感じさせます。それは、能のように時空をこえ、これまでのいっさい、あらゆるすべてが、この空間にうごめいていることを気づかせてくれます。
歌舞伎も、動いていない時こそ激しいことや、見得をすることは、「気を飛ばす如く」肉体からはっきり発動する意識を、練習していると言えます。
# by ooca | 2012-05-29 11:33

【序】

踊りのお稽古も、茶道のお稽古も、学校で教える授業も、習ったり、教えたりしながら、懸命になっていくことの元は、頭にあるのではなく、身体を通していくことにあるとつくづく思います。今を客観的に感じるのも身体を通してなのです。
身体表現として日本の伝統芸能は古くて新しい魅力があります。芸という中に人生を見ます。

歌舞伎や舞踊についてその華やかさは、お能や雅楽にある【序破急】で考えますと、全体を通して【破】にあたると思います。しかし、その中にも、始まりの序があり、破になり急へと向かっていきます。全体を破から考える歌舞伎は、展開の面白さやスピード感を持ち、様々な力を強烈にさせ、【急】に向かい、超人鬼神を激しく活躍させます。その破は、頭で考えると絡み合っていく筋でも、付けが打ち上がり大きな見得や、大太鼓のドロドロと共に現れる隈取りの役者、青白い顔の幽霊など、歌舞伎の音と役者の動きが一体化して、劇場中を震撼させ、それがいつの間にか、見ている者の身体さえも湧き起こすエネルギーとなるわけです。この世とあの世を打ち破る程の破なのです。しかし、その中にも沈静があり、深い信心もあります。破にあって、儀式的とさえ感じる歌舞伎表現は神がかり、心身を奪われる感じさえします。
歌舞伎、この【破】にとって大切なことは、【序】の感覚のおとずれなのです。


お稽古というのは、単純なものです。一生懸命自分がそれだけになっていくことの為にお稽古しています。バタバタしてきたことが、すーっと引っ込むようになります。いつでも自分を【序】に戻します。
自戒したり、工夫したり、初心忘れずも、こんなことを言うのでしょう。考えぬくことをさけることなど、もったいないことです。この壁を越えたら何が起こるか、わくわくしながら、アスリートのようです。

一生を、参学する思いを大事に持つことは、自分の中になににもたとえられない、力強さを身につけていくことに思います。序破急もう少し考えてみたいですね

お稽古場に座ることが【序】です。はじまりなのです。
# by ooca | 2012-05-25 11:35