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インターフェース

インターフェース_f0228641_23082385.jpg

振りと実演家の身体をつなぐ、これもインターフェースと言えます。
楽曲と実演家、伝統の型や形、作曲、作調、節付け
みな、融合=つなぐが必要なのです。伝統に伝承者がなくてはならない、伝統と伝承者の間がインターフェイスという仕事です。人は、インターフェースを誰に頼むわけではなく、自分で行うことができるのです。

# by ooca | 2020-05-30 23:08 | 櫻香のつぶやき

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市川櫻香 (@ooca2)さんが6:04 午前 on 月, 5月 25, 2020にツイートしました。
夢で公演の打合せをしてました。
昨日「基本動作のための小さな舞踊」をつくっていたからでしょう。深くひとりでいるとき前向きな孤独を楽しむ。という内容です。YouTubeにアップ準備中
(https://twitter.com/ooca2/status/1264663677539516416?s=09)

Twitter公式アプリをダウンロードhttps://twitter.com/download?s=13


# by ooca | 2020-05-25 11:41 | 櫻香のつぶやき

日々

制約ある生活が続いている日常と
伝統の型に生きる芸術に遠くない
感覚がある。
職人が鍛練に鍛練をかさねてゆく
芸術の芸もたたきこんだ芸が無意識
の底から発するわざへつめてゆく。
「世阿弥」の我慢も、離れて見る目を
持つことも、今、その日常にいる。

心を細かにしながら、視野を広げ
内面と外体が一体となるよう、もっと
も安定するところへいくことが
私達のあたえれたミッションであるかも



# by ooca | 2020-05-16 22:26 | 櫻香のつぶやき
藝術は心の歴史である
伝える側の思想哲学にこれからの
生き方を受け止められる

 828年、空海は、綜藝種智院
(しゅげいしゅちいん)設立


当時の大学は中央の教育機関として主に
貴族教育、儒教専門の教育が行われ
寺院では仏教専門に教育が行われていた

空海は、儒教、仏教、道教、あらゆる思想
学芸を総合的に学ぶ施設として綜藝種智院
を設立
芸術は、もともと六藝四術を根拠とし
六藝は礼楽射御書数、四術は詩書礼楽とした

古来日本の芸とは、人間の働き、所作を
意味するものに当たり、学問的真偽にも
道徳的善悪にも関するものである。
ただ単に芸術的な美醜のみに関するものと
限られたわけではない。

芸術は、感情の領域に属するも
のとされているが、藝もしくは芸術は単に
感情の領域のみに限らず知識や意志の領域
にも属するのである。
古来日本では「わざ」と言われてい
るものに当たる

わざおぎについて、日本書紀に雨鈿女命が

「天石窟戸の前に立たして巧みに
俳優(わざおぎ)す」

と、闇をも明るくするような、おかしく
も芸術的なわざの最も古き記録がある。
とくに芸術的なものを意味しない人間の働
きの所作の場合において

日本書紀 巻第二に

「魚釣(つりする)を以て楽(わざ)と為す
或は曰く、遊鳥(あみつかふ)を楽(わざ)と為す」

 とあるように、楽をあそびとよませず

「わざ」とよませ=今における「藝」
とよませてある。

得意な働きのある人を藝当がある又は藝が
ある人という語を用いたが、久松真一先生は
この本で的確に示してくれている。

古来、藝術的な技を持つ人を「わざおぎ」
「あそび」という語を用いた。
そして
芸道は一般の藝を広く意味
するわざの道と言える。
と導き
このことを更に分かりやすく解説されている。

芸の道ということを以下4つの段階に
して示すことができる。

1 「わざ」そのものをしか意味しない、
人間の「あらゆるわざ」のこと・<芸の種目>

2 「わざ」がその「個々のわざ」そのものを
意味するのではなく「わざ」をする
【てだて】とか【すべ】を意味する。<技術>

3 「わざ」そのもののや「すべ(技術)」を
意味するのでなく、その「わざ」に従事する
ものの<規範・法則>を意味する

4  個々の藝が単なる個々の藝に止まらず
個々の藝を超え人間たるもの天地宇宙の間に
行われる<根本法則>を意味する

3、をもって【道】に入るが
求めるところは4、であること

「わざ」は「道」のための「わざ」であり
「道」はわざの為の「道」であって
「道」なき「わざ」は盲目であり
「わざ」なき「道」は空虚である

以上、燈影舎 京都哲学撰書 
久松真一「藝術と茶の哲学」解説倉澤行洋
からかなり大雑把ですが広い集めてみました。

それでは「日本の芸道が、どのようにして芸術
と言われるようになったのか」

日本の藝が西洋のものより劣っている
という見方で教育に西洋文化が取り入れられていく
時代にあり、若い私は疑心と不満を抱いていました。
そしてそのような思いと決別できる
きっかけが20代前半に読んだ「芸道の哲学」 
著者、倉澤行洋先生の本である。

「芸道と茶の哲学」著者久松真一は倉澤先生 
の師である。今回この本を今読むことにより
倉澤先生の書かれた「芸道の哲学」を更にた 
どることができた。

「深さと広さと長さ」について久松真一先生は

「深さ」を自由自在に
「広さ」は生きている自分の立場
「長さ」を歴史や時間に自分が投入でき
ているとき。と、著書「東洋的無」に
示されていれ。
誠に恐縮な思いつきではばかられるが
私はここで倉澤先生が「芸道の哲学」
に書かれた「心から姿へ」「姿から心へ」
という芸道の修行の行き方を取り上げ
「姿と心のその間」を無謀にも世阿弥の
「花伝書」に書かれてある「姿」と
久松先生の示された内への精神を、私の身体
の感覚によりこのように考えることができた


1、世阿弥の「嵩」重みの姿は
久松先生の「深さ」自由自在による精神、無底

2、久松先生の「長さ」時間、歴史へ自分が投入 
できているとき、世阿弥の「位」とする幽玄の姿

3、世阿弥の「長(おさ)」芸の位の姿
久松先生の「広さ」生きている自分の立場

倉澤行洋先生→久松真一先生⇔世阿弥
の連携が感じられる。

本書の最後に「芸術」という言葉が近世の
ヨーロッパ語の翻訳用語の意味であること
美を追求することに言及した意味をそのまま
日本は理解してきたが、この点も腑に落ち
ないことであった。芸術か、芸道かの解釈は
久松先生の芸術という語の成り立ちにより
理解することができる。
今の社会では「芸術」が一般的な芸術に対す
る名称であり「藝道」と「藝」の「わざ」と
「わざおぎ」も芸術に含まれることには間違
いではないが、別種の質感を理解することに
より、東洋独自のナチュラリズムの方向に向
かえる。目の前に起きつつある変化の今、東洋
の世界観から新たな考えを求めていくべきと
また更に感じている



           舞踊家による哲学/市川櫻香


# by ooca | 2020-05-06 22:45 | 櫻香のつぶやき

甲南女子大《身体表現》

甲南女子大《身体表現》_f0228641_22285200.jpg

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甲南女子大《身体表現》_f0228641_22285327.jpg

私の授業を受講される皆さんと
お会いできない状況となっており
とても残念です。早く終息しまして
実際に身体を使い、想像と身体の
つながりを経験して欲しいと思います。

もう一人の私を探し出しいかに育て
てゆくか学び、学び続けていきましょう。
添付コラージュ写真は
「隅田川」です。






# by ooca | 2020-05-04 22:28 | 櫻香のつぶやき