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市川櫻香の日記


by ooca
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変化物<見あらわし>について

何かのきっかけで、一変していくあたりの気配、そして変化した姿。『紅葉狩』『将門』『鏡獅子』『道成寺』人気の演目です。歌舞伎では、何かをきっかけにその本性をあらわすことを、【見あらわし】といいます。
日常的に、暮らしている中では、あえてそういう場面を遠ざけて過ごしています。
しかし、劇を見る者にとり、変化となる者のそこに至る経過を感じとることは、舞台を見る楽しみでもあります、人の心の深さや、生きている中で、影響を与えていく過去からあるこの時を、知ることも想像の世界の遊びです。趣きの面白さを感じとることにもなります。例えば『紅葉狩』の更級姫やその腰元達は、お能では、まず姫達が男達より先に現れます。そして、紅葉狩にやってくる男達の気配を感じているのか、お芝居の現場、戸隠山に佇んでいます。やってきた男達と酒宴を催し、やがて鬼女となって襲いかかります。始めに女達がただそこに居るところが、主眼に感じます。山の気配(けはい)を最初に必要とする演目です。先住民の不安のように、女達のそこに至る、憂慮とした感じが、山々の気配となっています。この姫達は、人ではなく山そのものです。狩りにやってきた男達は、神の使いの鹿を射ようとしています。姫に姿を変えた変化らは、山の掟を伝える何者かであるように思います。その何者かは、古い昔、都の男により、事情あって山に姿を隠すことを余
儀なくされた姫とその腰元達であるかもしれません。戸隠山の伝説と重なっていきます。歌舞伎では、まず、美しい紅葉の山々を舞台一面鮮やかに見せます。男達が、弓矢を携えあらわれます。姫達は、後より上手幕の内より、あらわれます。これは、役者優先の歌舞伎の演出でもあり、また、舞台の大道具の素晴らしさを楽しんで頂く部分です。お能では、能舞台下手、橋がかりからすべてがあらわれます。演者1人ずつを、舞台に入るまでを見つめることは、やってくる者達を、緊張を持って待つ、舞台の姫達、見る側のお客様達の感覚を研ぎ澄ませます。
他に変化物として『将門』があります。こちらは、大宅太郎が変化を討つ為にあらわれます。そこへ、変化である平将門の娘、滝夜叉姫が姿を変えて父への仇を討とうと現れます。父への恋慕をきっかけに、見あらわしとなり、大宅太郎と戦います。
『鏡獅子』は、お小姓が、踊りを踊るうちに、徐々にお城を守る獅子の精と魂を響きあわせていく部分が見所です。最後には獅子の精となって勇壮な姿をあらわします。

『道成寺』は、白拍子と偽った女が、裏切られた恋に一層の炎を燃やし、踊りながらその責め苦をエスカレートさせていきます。最後には、蛇となって自身も苦しみの末の姿をあらわします。

見あらわしは、それぞれ、そこに至るまでも、また、きっかけも様々ですが、どれも、そこに計算が見られるものではありません。純粋な熱さゆえに変化となってあらわれます。滝夜叉の父性愛も、山姫と化した更級姫の人間への警鐘も、小姓弥生の<夢中の魂>に降りる奇跡も、執着する白拍子の化身も、みな女性です。私達女性の内に、化身に至る経過を実は、皆持っていると思います。しかし、それを表現するのは、頭ではなく、体の中からあらわれることですから、なかなか難しいことです。
昭和の名優、中村歌右衛門丈の表現により、私は、悲しみや、憎しみへの経過を実際に見ることができました。深い想いにあふれる情感として、目に見えないはずの精神が舞台にあらわれることを教えて頂きました。歌右衛門丈の身体の境界線が見えなくなるほど、その空間に溶けていく精神を劇場中で味わいました。
技術を通して本来の<生>が舞台上に生きることも拝見しました。
ごまかしも、ずるさも、賢さの内でしたら、不必要に思いました。
by ooca | 2011-12-11 09:29