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市川櫻香の日記


by ooca
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懐かしさの積み重ね

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フェンネルとオレンジピールのハーブティーを飲むとふわりと癒されます。ちょっと煎じ薬の『ひちどせん』に似てる感じです。匂いが、ごくごくほんのちょっとですが、似てるーかな。いや、全然似てないのですが、似てる感じに思うのは、私が自分の思い出を絡めているからでしょうね。冬になると、この煎じ薬を飲んでいた祖母を、フェンネルのハーブティーを飲みながら思い出します。懐かしいという感覚は、言葉や物から得られるものより、ゆったり、ほっこりしているその人の顔にありました。その顔を見ていた、その時の自分が、よみがえってきます。一緒にいるだけでいいと思うのは、次の幸せを作ってもいるのですね。それが、もっと年月を重ねて、懐かしさとなるのですね。
祖母との思い出はもう40年以上も前の懐かしさです。ほっこりね。
# by ooca | 2011-12-15 09:36
人生の早い時期に自分の芸術を見つけることができ幸運に思っています。なぜならば、芸術をとおして、人間としての体験を分かち合うことを知ったからです。芸術が、万物を貫いて精神的なつながりを表現していると感じたら、あとは、もうウカウカしないで、楽しく一生懸命学びます。このことには、以前、愛知尼僧堂の堂長をされる青山俊薫先生から『良き導き手を得ることの大切さを』厳しくおっしゃられたことを思い出します。指導者に恵まれることは難しいことです。教える側の身からも、自身に強く戒めています。世阿弥の学びの大切に『そもそもその物になること、三つそろはねば叶わす。下地の叶ふべき器量、一つ。心にすきありて、この道に一行三昧になるべき心、一つ。またこの道を教ふべき師、一つなり』
一つ目の下地の器量は、教える側の心と身体を全力に働かせる指導と工夫を持って、学ぶ者に向かうこととも今は理解します。将来の方向づけをしながら進むことがあって、道ができるわけです。長い道のりの一端であっても、人は責任のあることを思います。今の世の中、有能の前に、人としての教えを、自身に求める指導者の存在こそ大切です。功利的な社会にあり、大切を見失ってしまわないように。慢心のないよう、感謝と反省と自戒をしながら、今日も始まります。
# by ooca | 2011-12-13 09:51
何かのきっかけで、一変していくあたりの気配、そして変化した姿。『紅葉狩』『将門』『鏡獅子』『道成寺』人気の演目です。歌舞伎では、何かをきっかけにその本性をあらわすことを、【見あらわし】といいます。
日常的に、暮らしている中では、あえてそういう場面を遠ざけて過ごしています。
しかし、劇を見る者にとり、変化となる者のそこに至る経過を感じとることは、舞台を見る楽しみでもあります、人の心の深さや、生きている中で、影響を与えていく過去からあるこの時を、知ることも想像の世界の遊びです。趣きの面白さを感じとることにもなります。例えば『紅葉狩』の更級姫やその腰元達は、お能では、まず姫達が男達より先に現れます。そして、紅葉狩にやってくる男達の気配を感じているのか、お芝居の現場、戸隠山に佇んでいます。やってきた男達と酒宴を催し、やがて鬼女となって襲いかかります。始めに女達がただそこに居るところが、主眼に感じます。山の気配(けはい)を最初に必要とする演目です。先住民の不安のように、女達のそこに至る、憂慮とした感じが、山々の気配となっています。この姫達は、人ではなく山そのものです。狩りにやってきた男達は、神の使いの鹿を射ようとしています。姫に姿を変えた変化らは、山の掟を伝える何者かであるように思います。その何者かは、古い昔、都の男により、事情あって山に姿を隠すことを余
儀なくされた姫とその腰元達であるかもしれません。戸隠山の伝説と重なっていきます。歌舞伎では、まず、美しい紅葉の山々を舞台一面鮮やかに見せます。男達が、弓矢を携えあらわれます。姫達は、後より上手幕の内より、あらわれます。これは、役者優先の歌舞伎の演出でもあり、また、舞台の大道具の素晴らしさを楽しんで頂く部分です。お能では、能舞台下手、橋がかりからすべてがあらわれます。演者1人ずつを、舞台に入るまでを見つめることは、やってくる者達を、緊張を持って待つ、舞台の姫達、見る側のお客様達の感覚を研ぎ澄ませます。
他に変化物として『将門』があります。こちらは、大宅太郎が変化を討つ為にあらわれます。そこへ、変化である平将門の娘、滝夜叉姫が姿を変えて父への仇を討とうと現れます。父への恋慕をきっかけに、見あらわしとなり、大宅太郎と戦います。
『鏡獅子』は、お小姓が、踊りを踊るうちに、徐々にお城を守る獅子の精と魂を響きあわせていく部分が見所です。最後には獅子の精となって勇壮な姿をあらわします。

『道成寺』は、白拍子と偽った女が、裏切られた恋に一層の炎を燃やし、踊りながらその責め苦をエスカレートさせていきます。最後には、蛇となって自身も苦しみの末の姿をあらわします。

見あらわしは、それぞれ、そこに至るまでも、また、きっかけも様々ですが、どれも、そこに計算が見られるものではありません。純粋な熱さゆえに変化となってあらわれます。滝夜叉の父性愛も、山姫と化した更級姫の人間への警鐘も、小姓弥生の<夢中の魂>に降りる奇跡も、執着する白拍子の化身も、みな女性です。私達女性の内に、化身に至る経過を実は、皆持っていると思います。しかし、それを表現するのは、頭ではなく、体の中からあらわれることですから、なかなか難しいことです。
昭和の名優、中村歌右衛門丈の表現により、私は、悲しみや、憎しみへの経過を実際に見ることができました。深い想いにあふれる情感として、目に見えないはずの精神が舞台にあらわれることを教えて頂きました。歌右衛門丈の身体の境界線が見えなくなるほど、その空間に溶けていく精神を劇場中で味わいました。
技術を通して本来の<生>が舞台上に生きることも拝見しました。
ごまかしも、ずるさも、賢さの内でしたら、不必要に思いました。
# by ooca | 2011-12-11 09:29

フリンジる

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陶芸家の小畑旦子さんが、お稽古場の入り口の庭木を眺めて、「好きにさせておくのがいいけど、きり過ぎない程度にきるのよね」 切ることと、切らないこと、この間は、一本の枝についてではあっても、一本の木のことに関わり、もっと広く全体の感じに関わっていくと、全体のお庭を見てみるとわかります。
きるか、きらないか、右か左か、前か後か、だけではない、「その間」、間は古い言葉で「あわひ」と言います。あわひ…の持つ力は、声に出してみるとわかりますが、やさしく、なじんでいくような、広がりさえ感じる言葉です。
小畑さんの作品も小畑さんの身体、その手から想像された、何かと何かの「その間=あわひ」を持っています。それが石や岩を想像させ、空の一部だったり。何かの一つとして、輝いています。近日、名古屋、池下の「あうん倶楽部」で展示されるそうです。
さて、小畑さんは何か力の入る時にふわぁと、力をくれます。写真のカバンについた、フリンジを今日は、大きく振りながら大切な話し合いに行きました。
フリンジが、纏<火消しのまとい>に見えたり、武将の持つ、采配に見えたりして、そう、フリンジって、そんな感覚で見てもいいんですね。元気を出して、頑張れだと知りました。小畑さんからのプレゼントです。有り難うございました。
# by ooca | 2011-12-08 16:41

本当に確かなことですか

古典に挑戦する人は、「なぜ」と問いかけてほしい。なぜ、という疑問を持っていく中で、新しい解釈が生まれたり古い解釈が見直されたりするのです。
たとえば、「日本の伝統芸能を皆さんにぜひ親しんでください」という趣旨で、<アイラブカブキ>や、<社会人のための伝統芸能>を催していますが、お三味線の曲を弾く、舞踊のかたちをしてみる、これは触れただけです。伝統の中で、私達にどう問いを発しているかを、発見し、伝統の中に、その答えを見つけようとするところに向かっていくことのきっかけを、作っていくことが大切に思います。発見する探求するに値する問いを持っているものが古典に思います。
お楽しみもこのような姿勢で向かうと現代とつながっていくと思います。ただその曲を弾く、ただ古典書を読む、ただ型や形を身につける、ただ成り行きみたいなものに引っ張られる、強制された状況に、流れていくような、何となくその中についやして済んでしまうようなこと。ものを習うことは、そうではないことを伝える側が自ら、発見し答えていく姿勢でいたいですね。今日は、甲南女子大学の授業の日です。毎週生徒に会うのが、楽しみです。
# by ooca | 2011-12-05 11:14