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市川櫻香の日記


by ooca
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奴物

奴は江戸時代の武家に働いていたものですが、いかめしい武士の生活の中に、親しみをいだく存在です。奴で思い出す映画があります。赤西蠣太(あかにしかきた)昭和11年制作、伊丹万作監督。大好きな映画の一つです。ストーリーは、志賀直哉の名作。この映画に奴が出ています。立ち座り、その所作のいかにも、武家の従僕たる感じが、なんともいえずによく表れています。加藤大介演じる奴、同じ動作を何度も見せる演出も武家生活の一端が見られて、またその所作がただ、足を払い、その自分の生活の場に座るだけなのですがいかにも、薄給な粗末さ愚直さも感覚的に味わえ、本当に良かった。元々歌舞伎の世界の人です。所作に現れて、屈強無骨な風情、主人に対する忠誠やら、その生活の境遇に、悲喜哀楽をかもしだして、滑稽さも。
所作の出来た演技は時代劇にとって大切です。
<奴>は、歌舞伎舞踊の演目としては今にも伝わっています。奴物と言い、長唄『鳶奴』は、主人のお使いの初鰹を鳶にとられる奴。清元『旅奴』は、曲の唄い出しから滑稽味があります。東海道をまたにかけて走る奴が、寒さしのぎにお酒をちょっと飲んだら、自分の影に「歩けば歩く、止まれば止まる、こりゃどうじゃ」と驚いたりの道中記。長唄『供奴』は、足拍子の合方ー(合方とは、楽曲のみ唄のない音楽のを日本音楽の用語として使います)、役者と三味線、小鼓の掛け合いの部分が見所、聞き所です。だんなを見失い急いでいるその所作を演じています。まだまだたくさんあります。

今、鳶奴を子供君が覚えています。頑張って下さい。
今日もありがとうございます。昨日から蚊取り線香をつけだしました。
# by ooca | 2011-06-07 00:19
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岐阜へ。で、出会った、犬の「のんちゃん」です。鵜飼船の乗り場に、 偶然にも、鵜匠の山下哲司さんが鵜飼の解説をされていました。20年ぶりの山下さんです。髪も白いものがまじり、おひげも生やされ、鵜匠の風格も貫禄ももたれていました。山下さんとは、20年前に、紅白歌合戦の地方審査員でお席がお隣同士。紅白歌合戦には、地域を代表させて頂き、出演いたしました。山下さんも岐阜長良川をアピール、装束姿でご出演されていました。リハーサルなどで、立ったり座ったりのつど、山下さんの装束の腰みのが、いうことをきかず、なかなか大変だったことを思いだします。その後、私どもの公演には必ず、電報でお祝いくださり、嬉しく思っていましたが、お会いする機会はなく、偶然の今日でした。ずーっと覚えていることの一つです。
舞踊でも、腰みのをつけて踊るものがいくつかあります。清元「三社祭」漁師姿の衣裳にみのを。この場合のみのは、黄色の麻をよったものです。長唄「汐汲」などの女性、汐汲は松風という須磨の浦の女性。この場合、絹を紐状にしたものをみのの形態にしています。
今日もありがとうございます。
明日は、時間をみつけて、お稽古場の苔をピンセットでせん定しなくては、と。
# by ooca | 2011-06-02 22:35

ちょっと振り返って

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突然ですが、なんだかこのあたりで一度、振り返ってみたいと…。むすめ歌舞伎の、旗揚げ公演は、愛知県中小企業センターホールでした。太功記十段目と白浪五人男を上演。四百人ほどの客席を持つ小さなホールは、満員立ち見の盛況でした。今から28年前のことです。それより24年前、中部邦楽総合教室が、開校されています。むすめ歌舞伎は、教室の伝統芸能愛好家のご声援により生まれました。旗揚げ前年、「名古屋むすめ歌舞伎を育てる会」が当時の名古屋市長杉戸清氏と、御園座長谷川真弘社長の呼び掛けにより結成されました。御芳名録には、美空ひばりさん始め、沢山の芸能界政財界の方のお名前があります。一万円一律のご寄付を元に、旗揚げ公演開幕。幕が降り、舞台上手の竹本さんに、「私達は、歌舞伎でしたか?」言葉が変ですが、ようするに、今、幕となり、観客席は満員なのに、拍手も何もなく、一体私達はこの舞台で何をしたのでしょうか?歌舞伎を上演できたのでしょうか?と、いったことをかかえた質問でした。しかし、その心配は、たちどころに解決しました。なぜならば、幕の外から、お客様の拍手が徐々に聞こえ大きな拍手となったからです。舞踊会とは違う、始めての歌舞伎でした。私の質問は、むすめ歌舞伎の皆と一緒に歌舞伎に向かう、代表の、責任感からなりました。私達の求める方向は、これでいいのでしょうか、旅立ちの不安からでもありました。
学ぶ機会を求めたい。それが、むすめ歌舞伎の結成です。今のようにインターネットで様々な活動を知ることなどない時代です。若い私にとり、邦楽も舞踊も、縦社会で、閉鎖的。同じ若い世代の横のつながりや様々な情報が伝統芸能を広めていく上で必要に思ったのです。しかし、同じように伝統芸能を学んでいる方は、なかなかお集まり頂けませんでした。当然各個お師匠のお許しがなければなりません。それでも、そのうちに、幾人かの舞踊家の卵さんと一緒に勉強の場になっていきました。よく大変だったでしょ?と尋ねられますが、幸運なことの方が多かったと思います。もうすぐ、あと2年で旗揚げから30年になります。今年もまた次の始まりに向かっています。
幸運は日々一刻一刻おとづれます。それは、これまでの皆さんと作り上げたことがあってのことです。くじけないで、義務でない私達の生きがいを形にしていくことは、思い方、考え方です。事務的なことのようには、いかないので、「大変そう」と言われるのも、まぁその通り。でも、それをできるのは、素敵です。好きなことを学ぶのですから、大変も楽しい勉強です。気の持ち方です。毎日変わらずやってくる1日をがんばれます。今日の雨も、長靴はいてピチャピチャ、と、8月24日の宗次ホール「勧進帳」のチラシの確認へ。宗次ホールさんのお陰で、再演させて頂きます。やはり、幸運です。
それから、11月3日(祝)むすめ歌舞伎公演です。皆さん、予定をしておいて下さいね。
ありがとうございました。
# by ooca | 2011-06-01 13:14
今日は、野村小三郎さんの、又三郎御襲名の公演でした。先代、又三郎先生には、ご存命中、先生の先生らしい仙人のような眼差しで暖かなお言葉を頂戴して参りました。大変僭越ですが、私の祖母を思い出すことがありました。本日はおめでとうございました。又三郎さんの、結婚披露宴が、なんだかつい最近だったように思います。あの時も、又三郎さん、ご挨拶で泣いてしまいましが、今日も父上を思いご挨拶の最後に泣かれていました。が、結婚の時と涙の嵩が違ってました。先代の風合いと違う肌触りの芸風に、いつか先代のあの仙人が現れてくるように思います。一つずつの狂言について私が申し上げることも憚りますが、中でも野村萬先生の「子盗人」の出から引っ込みまで、温かくもあり、どこか懐かしくもあり、深く広く、品と格がありながら、ぎりぎりのところに妙味がありました。
以前にも野村萬先生の知識と見識の広さを伺う機会があり、今日の公演後のパーティーでの祝辞も、またしかり。先代又三郎さんからのお手紙を皆さんにご披露され、ご自身お読みになられました。それが素晴らしく一編のドラマを聞くようでした。この国の終戦時がどうであったか、終戦1週間後に、演能を復活されその際の様子が書かれた手紙でした。芸団協の会長をつとめられる、野村萬先生の芸と人は愛情と責任にあふれていると感じました。それは、舞台でも勿論、現れていました。子盗人での萬先生の盗人が、盗みに入った先で、その家の子をあやします。盗人でありながら、それ以前にある人間としての父性を感じました。
むすめ歌舞伎も今年、小さな子供たちが、初舞台を迎えます。
「可愛いという心」は、どこからやってきたのでしょうか〜。新、又三郎さんの長女、四歳のさよさん、初舞台のお猿さん役、フクフクふわふわ可愛いい初舞台でした。
翁で面箱持の大役をされた、10歳のご長男もおっとりされて立派でした。おめでとうございました。今日のお客様はこの相続されていく伝統の歴史を楽しみにお持ちになられたように思います。こういう楽しみ方が、「日本」流と胸を張りたい思いです。むすめ歌舞伎も、こんな感覚で始まりを迎えています。今日もありがとうございました。
# by ooca | 2011-05-30 00:45

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朝の鶴舞公園、ばらは朝が素敵。
# by ooca | 2011-05-28 08:19